善性は自由の中でのみ開花する

〈善性〉は自由のなかでのみ開花することができます。どのようなかたちであっても、説得の土壌や強制のもとでは花開くことはありません。またそれは報酬の結果でもありません。どのような種類のものであっても、模倣や適合があるとしたら、善性は姿を現わしません。また当然のことですが、恐怖のあるところにも、それは存在できません。善性は行動にあらわれますが、その行動は感受性に基づいています。この善性は、行為にもあらわれます。
 思考の動き全体は、善ではありません。思考はとても複雑ですが、理解されなくてはなりません。その理解こそが、思考にそれ自体の限界を自覚させるのです。
 善にはどのような対立もありません。たいていの意図は善を〈悪〉や〈悪事〉に対立するものと考えています。またあらゆる文化においても、歴史的にずっと、善性は粗暴さとは別の面だと思われてきました。ですから人は〈善〉であろうとして、いつも〈悪〉と戦ってきました。しかしどんなかたちであっても、暴力や争いのあるところでは、善が生まれることはありえません。


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 君たちの信心は取引に過ぎない。これだけやったのだから、これくらいのお返しはあって当然だろうと考えている。少しは下劣な自分に気づいたらどうなんだ?


学校への手紙