但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず


 唱法華題目抄は真蹟が存在しないものの、曽存と考えてよかろう。

 御真蹟は現存しませんが、『南条兵衛七郎殿御書』の御真蹟の三紙にわたって、その行間に、日興上人が本抄の一部を書き込まれるという珍しい形で、最古の写しが伝えられています。


「大白法」平成8年5月1日刊(第454号)】


 この御文をどう読むか?

 大半の創価学会員はこのように読んでいることと思われる。というわけで憶見、誤謬を指摘しておこう。我々は御書をありのままに読むこともできなくなっているのだ。


 尚、市丸さんは創価系ブロガーの中で最もきちんとした文章が書ける方で、広布史に関する証言は読み応えがある。少なからず私が敬意を払っている人物の一人であることを付言しておこう。


 この御文が凄いのは、日蓮が通力と利根を認めているところにあるのだ。ただし、正邪を糺(ただ)す場合は飽くまでも法門によるべきだとしている。ここでいう法門とは道理と考えていいと思う。すなわち、キャラクターよりも道理の方が重いという意味合いなのだ。


 明らかに超能力があると思われる人物を私は6人ほど知っている。「凄いなあ」と思う。でも、通力よりも目が見えることの方が不思議だ。生きていることは、もっと不思議だよ(笑)。