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皇室中心の貴族仏教(最澄と空海)

…澄と空海)が、庶民の不幸の生活をふみ台として、400年という長いあいだにわたり、偽りの繁栄を謳歌したのは、まことに驚くべきことである。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 創価学会では「平和な時代」としているが、視点を民に置けば全く別の見方ができる。多様な視点・発想を奪い取ることが宗教における最大のマイナス要素だ。中央集権という共通項によって教団と社会主義国はまったく同じ行動原理となる。 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

真言密教は最澄の法統を密教で換骨奪胎

東大寺別当をかね、大僧正に補せられた空海は、最澄以上に官僚的な貴族僧で、彼が一宗として確立した真言密教の勢いは、高野山や東寺だけでは満足できず、日本天台の法城比叡山にまで深く食いこみ、『法華経』に帰依した最澄の法統を密教で換骨奪胎し、のちの日蓮を激怒させた。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 視点の高さが概念を変える。ただし法統は思想に非ず。もちろん真理とも関係がない。 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

辻説法の可能性

…1240)2月2日、鎌倉の市制に関する重要法令が、幕府から発令された。その内容は、次の人々を取り締まる件についてであった。 一、盗人のこと 一、旅人のこと 一、辻捕(人さらい)のこと 一、悪党のこと 一、丁々辻々の売買のこと 一、小路を狭くなすこと 一、辻々の盲法師ならびに辻相撲のこと 一、押買のこと 鎌倉には【人さらい】がおり、町角では盲法師が平家琵琶を語り、辻相撲が行なわれ、小町屋(商店)が商品を店先に並べて道幅を狭くするなど、都市鎌倉の繁栄が窺(うかが)われる。“押売り…

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腹切りやぐらと松葉ヶ谷草庵

…の記事を読まれよ。 鎌倉幕府の滅亡 東勝寺合戦の果てに北条高時と一族283人、臣下870人が自害した場所が、東勝寺の腹切りやぐら(青印)である。 鎌倉怨霊散歩〜「北条高時腹切やぐら」 腹切りやぐら 高倉健が北条篤時の末裔にあたり供養をしているようだ。 腹切りやぐらの塔婆に「高倉健」 健さんのルーツと宝戒寺 で、この宝戒寺というのが紫色のポイントで、北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡。そして緑色が先日紹介した日蓮辻説法跡。 参考までに松葉ヶ谷草庵跡の推定される場所を赤印…

鶴岡八幡宮の大銀杏倒れる

…ようだが、幕府の目には挑発と映ったはずだ。ちなみに直ぐ上の妙隆寺は、鍋かむり日親が修行した中山系の寺である。 日蓮辻説法跡 創価学会では辻説法を否定し、「座談会方式であったに違いない」との見解を示しているが、現代の常識を鎌倉時代に当てはめたところで十分な根拠となるはずもない。日蓮がストリート折伏を行ったとしても別におかしな話ではあるまい。大道芸などの風俗を調べるのがよいと思う。 大きな地図で見る 鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れる 鶴岡八幡宮の大銀杏 腹切りやぐらと松葉ヶ谷草庵

鎌倉・松葉ヶ谷・竜の口 日蓮大聖人足跡

湘南ボーイズ・アドベンチャーズ

鎌倉時代の人身売買

当時はこうした人質や人身の売買が頻繁に行われていたのである。この場合、六男は債務奴隷として下人となり百姓身分から転落することとなった。 【『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久(中公新書、2009年)】 湯浅治久

殉教

殉教を強いる宗教は邪教である。第六天の魔王の所業に他ならない。鎌倉時代は人の命が軽かったことを踏まえた上で、日蓮が殉教を勧めたかどうかを厳しく吟味する必要があろう。

進化宗教学、あるいは宗教工学に関する覚え書き

…日蓮――及び比叡山発鎌倉仏教全部――もその論理に乗っかっている。 前向きに解釈すれば「大文字の物語」といえるかもしれない。 決定的な時代性の相違はコミュニティが国家化を目指したこと。 問題は国家の次に何が来るのかである。世界なのか、個人なのか、あるいはネットワークなのか。 ただしコミュニティとは政治の枠組みを意味するわけだから、国家を超えるものは想定しにくい。 インターネットを介した複層的なネットワーク化が進んだ時、宗教の適応はどのように進化するのか? 進化宗教学的見地に立て…

多造教団堅固〜日蓮をゼロから捉え直せ

…教団堅固(笑)。 また和合僧とは特定の教団を意味するものではなく、民主的な人と人とのつながりを指しているのではあるまいか。 日蓮の思想を鎌倉仏教から脱構築する必要があるように思えてならない。否、鎌倉仏教に貶(おとし)めるなと申し上げたい。 その意味で日蓮思想を形而上学として捉えることを提案したい。っていうか、日本仏教の密教化を正当化するためには、それくらいしか方法がなさそうな気がする。 ドイツもしくはフランスあたりの青年部から、哲学界を揺るがすような人物が出ることを期待する。

宮田論文に関する覚え書き 12(最終回)

…蓮が言うだろうか? 鎌倉時代にあって、自分の手紙を数百年にわたって保存することを考慮していたのだろうか? そして私が今、呻吟しているのは「日蓮の悟りを理解できる人物が鎌倉時代に存在したかどうか?」である。多分いなかった、と思う。だとすれば、日蓮の教えは限定的になっている可能性すら否定できない。 大乗仏教=小乗仏教よりも上、という図式も考え直したがいいよ。 宗教は共同体のあり方に応じて変化する。だから先日も少し触れたが、三国四師の本質は共同体の変化にあると考えるべきである。20…

九識論について

…っては1ヶ所もない。鎌倉時代に唯識の議論が活発であったかどうかもわからない。 というわけで――すまん、時間がないのだ――九識論は引っ込めるべきだと私は思う。 Wikipediaによれば、「(※如来蔵)思想を止揚するため、天台宗や華厳宗などの法性(ほっしょう)宗は、この阿摩羅識を加えて新たに九識を立てた」とのこと。 そもそも八識に依存している点でダメだと思う。阿頼耶識(あらやしき)の向こう側に位置するのは諸法無我であろう。そこに阿摩羅識を立ててしまうと我(が)が延長されることに…

最澄「法華と真言とのあいだに優劣はなく、両者は一体不二の関係にある」

旧仏教に対して容赦しなかった最澄は、自分と同じ新仏教の担い手、日本真言宗の祖空海に対しては妥協的であった。彼は、もと自分の弟子であり、のち空海門下四哲のひとりとなった泰範(たいはん)にあたえた書簡(弘仁7年5月1日付)のなかで、法華と真言とのあいだに優劣はなく、両者は一体不二の関係にあると述べている。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 空海が最澄に貸し出さなかった理趣経 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

諸法実相と本覚思想

…する禅仏教であった。鎌倉仏教の主役であったこの二種の仏教伝統は、本覚思想が安易な現実肯定におち、悟りを求める実践の重要性を軽視していると批判した。 【『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社選書メチエ、1998年)】 本覚思想とアニミズムは分けて考えるべきだ。編集者も見逃しているようで、危うい文章となっている。尚、本覚思想とアニミズムに共通する「安易さ」は、現代におけるスピリチュアリズムと同じ臭いがする。 十如是の原文(サンスクリット・テキスト)…

創価学会はニューエイジか?

…文化からは除外している。このように、ニューエイジに特定の宗教教団も含むと考える者から、固定的な組織を除外する研究者までいる。 【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)】 鎌倉仏教は最澄(台密)と空海(東密)による密教の系譜に連なっており、マンダラとマントラ(呪文)が共通項だ。「祈りはかなう」という主張は科学的に立証することができないゆえ、密教系はすべてスピリチュアリズムにカテゴライズされる。 伊藤雅之 相関関係−因果関係

顕密仏教と鎌倉仏教

しかし、戦前から戦後を通じて、ごく常識的に唱えられてきたこうした鎌倉仏教観は、現在、大きな修正を迫られている。それは古代以来の八宗(いわゆる南都六宗と天台・真言宗を指す)を中心とする顕密仏教こそがじつは中世の主要な仏教である、という主張による。鎌倉仏教などは、顕密仏教の社会における影響力を考えると、せいぜい顕密仏教の異端の一つにしかすぎないというのである。 【『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久(中公新書、2009年)】 湯浅治久

本地垂迹説は神道に対する妥協の産物

…らの激しい抵抗の結果、仏教の側では、一種の妥協と譲歩を余儀なくされた。インドの仏が、衆生(しゅじょう)を済度するために、神の姿でわが国に現れたとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)こそ、仏教の神道に対する妥協の産物、つまり神仏習合思想の現われにほかならなかった。鎌倉時代になってからも、氏神信仰はさかんであり、ことに宮中では、神事が仏事に優先していた。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

民族という概念

…る可能性がある。集団は必ずヒエラルキー構造を形成しており、そこに暴力性が潜んでいる。自由と規律という矛盾を解消することは至難である。プラグマティックな観点から組織が生まれたとすれば、広宣流布はプロパガンダとなることを避けられない。そして外へと向かう運動性が、組織内部を弱体化させる根本原因となるのだ。集団に内在する本質的な問題を解消するブッダの行為が「出家」である。ところが日蓮は勇んで政治にコミットした。宗教社会学を踏まえると、鎌倉時代の世俗化を明らかにする必要がある。 森巣博

スピリチュアリズムの否定

…のものであるからだ。鎌倉仏教はいずれも最澄や空海の系譜に連なっており、密教化を避けることができなかった。このため鎌倉仏教は仏教に非ず、という主張は今もなお根強い。 因果とは物語性のことではあるまい。起承転結という時間性を有するのであれば、因果倶時は成立し得ない。因果から物語性を引きずり出して、縁起に置き換える必要がある。 スピリチュアリズム一つとってみても、ここまで説明を要する。「一を見て十を知る」には十の知識と感受性が必要だ。青年は徹底して学べ。中高年は去ってよし(笑)。 …

鎌倉幕府の成立は1192年ではなく1185年

かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前すなわち1185年であるとする説が支配的である。また、「日本で初の武家政権」とされたこともあったが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。 【Wikipedia】

松葉ヶ谷の草庵

…〈みやざき・えいしゅう〉(毎日新聞社、1971年/平楽寺書店、1997年)以下同】 ただ古伝にいうごとく、松葉谷に庵室を構えたとしても、後に述べるように文応元年(1260)8月の夜討による消失、弘長元年(1261)より3年に至る間の伊豆流罪、あるいは文永8年(1271)より同11年に至る佐渡配流を考えれば、鎌倉に入って設けた庵室の場所は必ずしも一定したものではなかったのではないか。むしろ諸方にその場所があったとする方が自然ではなかろうかと考えられる。 宮崎英修 日蓮とその弟子

思想の一般化と梵天勧請

…経典を金言としたのは鎌倉時代の思想的混乱の中で、「対話の基準」とするべく依拠(いきょ)したものであって、教条とは無縁なことが明白だ。 もう一歩踏み込んでおこう。智慧を知識化するのは集団であり組織である。理論が無謬性(むびゅうせい)に向かって構築される時、「言葉による支配」が見え隠れしている。人間を言葉に従属させようとするのは第六天の魔王の働きだ。おわかりになるだろうか? 本因妙と本果妙の相違には、組織化(ヒエラルキー化)と権力の問題まで織り込まれているのである。 智慧は言葉(…

少数精鋭が大軍を破る

…ガリア軍を、北条氏綱は8000で8万の関東菅領軍を、毛利元就は5000で3万の陶勢を、織田信長は4000で2万5000の今川勢を撃破し、楠木正成はわずか500で鎌倉幕府軍20万を手玉に取った。 兵隊の多い少ないは、戦争の勝ち負けを決める多くの要素のうちの一つでしかない。 有能な指揮官は兵力以外の「勝てる要素」をいくつも見つけ出し、それを徹底的に活用したのである。 【『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信〈ひろみや・たかのぶ〉(彩図社、2009年)】 廣宮孝信

シャーマニズムと密教

古代仏教が密教中心に普及したことも、それ以前からあったシャーマニズムとの関係から理解されなければならない。古代において、シャーマニズムや密教などの呪術がさかんだったのは、人知蒙昧のせいばかりではない。天災地変、飢饉、疫病などの恐怖からぬけだすのに、それ以外の防災手段を求めることができなかったからである。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?

…考えてよいでしょう。鎌倉時代は印刷技術もないため、人々に権実雑乱の現実を知らしめる行為は公場対決しか考えられません。 では我々が望んでいる「勝利」とは何でしょうか? それは目標の達成です。ある時には弘教であり、またある時には新聞啓蒙であり、そしてある時には選挙だったりします。学会総体として見た場合、全て広宣流布のためであると意義づけられています。 勝負である以上、勝ったり負けたりすることは避けられません。勝てば気分がよくなり、負けると落ち込むのが人の常でありましょう。これは自…

真蹟主義について考える

…てならない。 日蓮は鎌倉時代に妙法が広まる様子を次のように書いている―― 当世此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る(「善無畏三蔵抄」890頁) 尚、善無畏三蔵抄は「日蓮聖人御遺文 解題 その1」によれば、「近年、京都妙覚寺所蔵の真蹟断片が本書のものであると確認された」とのこと。 教義は人間を束縛する。そして教義は異端を生…

斧不一からの質問状

…いないのはなぜか? 鎌倉時代は武家政治の幕明けである。武家政治とは軍事体制を意味する。日本は鎌倉時代以降、室町時代〜南北朝時代を経て戦国時代(1467-1573)に突入している。かような時代であれば、我が身を守るために暴力を振るわざるを得ない状況が存在したことだろう。とすれば、弁慶みたいな僧兵もいて不思議ではなかったと思うのだがどうか? 【問い81】教団という枠組みを保持しながら、世界広布は可能か? 【問い82】実社会の中で「権力と戦う」とは、どういった局面が想定できるか? …

熱原の三烈士

平左衛門尉頼綱は、鎌倉の法華宗弾圧の手段の一つと考えたのか酷しく神四郎等を責めさいなみ、10月15日、子息資宗(のち飯沼判官という)をして神四郎(兄)・弥五郎(弟)・弥次郎の3人に惨刑を加えてのち斬首した。日興の本尊分与帳に 次在家人弟子分 一 富士下方熱原郷住人神四郎〔兄〕 一 富士下方同郷住人弥五郎〔弟〕 一 富士下方熱原住人弥次郎 此の三人は、越後房・下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年奉信じ始め奉るところ、舎兄弥藤次入道の訴に依りて鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢ぬ…

最澄と徳一の論争

…場合は、円・禅・戒・密の四宗が、差別のまま共存を認められるのである。のちの比叡山が混合主義(シンクレチズム)の総本山となり、異質の仏教の母胎となりえたのも、一宗だけにこだわらない最澄のこういう寛容な精神に由来していた。しかし寛容といっても、唐代の仏教を輸入することだけで精一杯だった最澄には、四宗の優劣を批判するだけの独創的な力量はまだなかったのである。 【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】 戸頃重基 鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮